go_go_my_lifeのブログ

61歳、未来の私から過去の私へ 家族・仕事・サッカーに育てられた人生の記録

7章 コーチを辞めようとした時期



2011年10月15日、私は会長と監督宛てに辞任文書を書いた。
10月30日をもってコーチを辞めたい、と。
理由は一つではなかった。

私は技術習得にこだわっていた。
長男の経験から、「こういう子をこれ以上増やしてはいけない」と
思っていた。
だからパスや守備より個人技術を優先した。
6年生には残り半年しかない。
中学へ行って困らない技術を身につけさせなければ、と焦っていた。

一方で、チームとしては結果も求められる。
理想は「うまくて強いチーム」だった。
しかし、結果は思うように出ない。
辞任文書には、かなり苦い言葉が並んでいる。

「『育成』に重きを置いてしまう自分がいて、
『結果』にはどうしても重きを置けず」
「蹴るサッカーに対し、文句を言うなど人間的に未熟な部分もあり」
「『自ら考えること』を小さいころから言ってきましたが、
なかなかそんな子ばかりではありませんでした」

そして最後には、
「今思えば、ほとんどが伝わらず、結果が出ませんでした」と
まで書いている。
当時の私は、相当行き詰まっていたのだと思う。
育てたい。勝ちたい。技術をつけたい。自分で考えさせたい。
努力してほしい。
けれど、子どもは一人ひとり違う。
保護者の考えも違う。
チームの考えもある。
自分の理想だけでは動かない。

だから、一旦リセットすることにした。
辞任後は、いろいろなチームの指導を見て、
ジュニアユースの試合を観て、
もう一度「ジュニア指導について」を考えたいと書いた。
どうしたら結果を出せるのか?
ポゼッション練習は何が効果的なのか?
うまい子、まだうまくない子をどう育てるのか?
辞める文章なのに、最後まで次の指導を考えている。

しかし、結局は辞めず、文書が良い振り返りとなり
小学校卒業までコーチを続けました。

 

9章 子どもたちの七年後、十年後

子どもたちが小さい頃から、私はよく「未来」を見せようとした。

2017年4月7日、息子の高校入学式の日、ジュニアチームの保護者に
「7年後の今日」という文章を書いた。
朝5時に起き、電車で学校へ行き、朝練をして、授業の後も部活
夏には海外遠征、ほとんど休みのない3年間が始まる。

そこには、母親の姿もある。
「お弁当を作るのに何時に起きるのでしょうか?
 朝練後のおにぎりは何個になるのでしょうか?」

子どものサッカーは、子どもだけではできない。
送迎、弁当、応援、遠征。家族の時間そのものがサッカーになる。


私は保護者に「夢をかなえるには、意識をすること、そして
努力をすること」と伝えた。
そして、困難に立ち向かい、たとえ敗れても「笑って卒業」できる
ような時間を過ごしてほしいと書いた。


別の文章では「4年後、7年後、10年後のありたい姿」を考えた。

現在小学2年生、4年後は卒団、7年後は高校年代、10年後は18歳
そこから逆算して「今」を考える。


次男は、高校の2年間シンスプリントでボールを蹴れず、
走ることもできない時期を経験した。
それでも高校最後の夏に間に合い、Aチームに入り、
県リーグ競合高のチームとの試合に先発、フル出場して逆転勝ちした。

私は「親としてはとってもとっても忘れられない嬉しい1日」と書いている。

未来は計画通りにはいかない。怪我もある。
レギュラー争いもある。
思っていた学校に行けないこともある。
それでも、基礎をつくり、努力し、自分で選んだ道を歩けば、
その先に別の景色がある。


私は小学生年代を「家の基礎」にたとえた。
中学で1階、高校で2階をつくる。
18歳でサッカーを辞めても、基礎のある2階建ての家は残る。
その家をもとに、新しい人生を歩けばいい。

この頃になると、私にとってサッカーの目的は、
サッカーを通じて、自分の人生を歩ける人間になってほしい。

そこへ少しずつ近づいていった。

8章 離れても、サッカーは終わらなかった

2012年、息子たちは成長し、中学、高校へ進んだ。
私は指導者だけでなく、父親としてサッカーを見る時間が増えた。


2015年11月3日、ある方から「一緒にやろう」と声をかけられた。

2022年の卒業メッセージには、その日が新しい出会いの始まりだったと残している。


以前の私は「こう教えるべきだ」という気持ちが強かった。
後年の文章では、少しずつ言葉が変わっていく。

2017年、三男が高校を選ぶ夏。私は手紙に「Challengeすること」と
書いた。
どこの高校でも、海外でも、後悔しない学校を自分で選んだなら
全力で応援する、と。


これは、昔の私ならもう少し口を出していたかもしれない。

私にとって小さくない変化となった。

指導者が正解を与えるのではなく、本人が選び、本人が歩き、
その結果を本人と一緒に受け止める。

子どもに「自分で考えろ」と言い続けてきた私自身が、
ようやく親としてそれを実践し始めたのかもしれない。


2018年には、2012年に卒業した子どもたちが大学生、社会人に
なる節目にU18のOB会を企画した。
理由は単純だった。
もうみんなで集まる機会はないかもしれない。
ならば、集まれる子だけでも集まり、ゲームをして、
お弁当を食べよう。

小学校の頃、ただ純粋にサッカーが楽しかったこと。
悔しかったこと。
点を取りたかったこと。
取れなかったこと。

私は、そんな記憶が、
その後の人生のどこかで彼らを支えてくれればいいと
思っていた。

6章 努力を求めるということ

私は、子どもたちに「努力」を求めた。
かなり強く求めた。

 

ある子から「サッカーを辞めたい」という趣旨の手紙を
もらったとき、私は返事を書いた。

サッカーを辞めるかどうかを決めるのは本人だ。
ただし、その前に「サッカーは好きか?」
「努力をしていますか?」と問いかけた。

 

体が小さい。
足が遅い。
人に迷惑をかける。

 

そう悩む子に対して、
私は「悩む前に精一杯努力をするのも良い」と書き、
「自分の息子だったら、人の3倍の努力をしてから
悩めと言う」とまで書いている。

 

今読むと、厳しい。

 

相手が子どもであることを考えれば、
言葉が強すぎた部分もあると思う。
けれど、その手紙の最後には、
サッカーだけが人生ではないとも書いている。
絵でも音楽でも野球でもいい。
辞めるのもその子の人生、続けて苦しみながらうまくなる道を
選ぶのもその子の人生だ、と。
私が伝えたかったのは、
たぶん「サッカーを絶対に続けろ」ではなかった。

「自分で決める前に、自分でできることをやったのか。」

そこを問いたかったのだと思う。

 

2011年のゴールデンウィークには、小学生に必要な
技術を細かくまとめた。
ドリブル、ターン、足元技術、フェイント、リフティング、
観ること、選択肢を持つこと、判断すること。

 

細かな技術項目の最後に残るキーファクターは、
周りを観る、判断する、コミュニケーション、パスを出した後の動きだった。

 

そして同じ年の冬休み。
子どもたちへのクリスマスプレゼントとして、
リフティングの宿題を出した。
合計6,500回/日。できなければ半分でもいい。

 

「夢を叶えるためには、『努力』が必要です。」

 

3年後、6年後、11年後の姿まで書いた。
強豪高校、ユース、高校選手権、そしてワールドカップ。
今なら少し笑ってしまうほど大きな未来を、
私は本気で子どもたちに見せようとしていた。

子どもたちに夢を持たせたかった。
努力すれば、今とは違う景色が見えると信じていた。

5章 個の育成と Player’s First


トレセン活動にも関わるようになると、

「個の育成」という言葉はさらに重くなった。

毎週末はサッカー漬けだった。

うまい子には上のレベルの指摘をする。

まだできない子には、その子のレベルに合わせて伝える。

同じ練習でも、一人ひとりに必要なものは違う。

トレセンに選ばれれば、同じくらいのレベルの選手同士で

切磋琢磨できる。

一方で、選ばれなかった子はどうするのか?

私は「自チーム練習時に伸ばしてあげるしかない」と

考えていた。

別のコーチからトレセン参加について相談されたとき、

私は一つの言葉を判断基準に置いた。

「Player’s First」

大人の都合でも、チームの都合でも、指導者の実績でもない。

子どもにとって何が一番いいのか?

しかし、これも簡単ではない。

選抜チームで結果を求めると、勝つためのメンバー編成になる。

高いレベルで競わせることは子どもの成長につながるが、

その一方で自チームで育ててきた子が別の環境へ移ること

への葛藤もある。

私は「U-12が最終ではないので、長い目で見ることも大事」と

書いている。

小学生年代で選ばれたかどうかが、その子の人生を決めるわけ

ではない。

時期によって急に伸びる子もいる。

今振り返ると、ここには後の私自身への宿題もあった。

「Player’s First」と言いながら、

私は本当にいつも子どもを一番に考えられていただろうか?

自分の理想のサッカーをさせたい気持ちが、子どもの選択

より前に出たことはなかっただろうか?

後から考えると悩むことだらけである。

 

4章 「自分で考え、自分で判断する」へ

2008年度、3年生。指導計画の言葉が少し変わる。

コンセプトは「個の育成」。

止める、蹴る、運ぶ、かわすを徹底しながら、2人、3人の

グループで動くこと、ポゼッション、カバーリング、ビルド

アップまで少しずつ学ばせようとしている。

学年通信には、毎号のように同じ言葉を掲げた。

「自分で考え、自分で判断して、失敗を恐れずチャレンジ!」

 

私は子どもたちに目標も書かせた。

「サッカーがうまくなりたい」は×。

「いつまでにリフティング100回」

「ドリブル・フェイントで5人抜き」のように、具体的にする。

 

今読み返すと、仕事で目標を行動に落とすときと同じことを、

小学生にやらせていたことになる。

 

サッカーノートも使った。

練習や試合で、うまくできたこと、できなかったことを

自分の言葉で残す。

通信では「1回1回の練習を大事に、大事に取り組んでください。

それが明日のみんなに繋がります」と書いた。

 

2009年度、4年生のコンセプトはさらに明確になる。

「観て・感じて・考えて・トライ! 見ている人に感動を!」

ドリブルも、ただ運べばいいのではない。

「どこに、何故、そのドリブルか」を考える。

攻撃では中央突破、サイド攻撃、スルーパス、サイドチェンジを

学び、状況に応じて一番いいと思う攻撃を感じ、考え、実行する。

攻守が切り替わった瞬間に次の行動へ移る。

技術を教えながら、私が本当に教えたかったのは

「選ぶこと」だったのかもしれない。

ドリブルか、パスか。右か、左か、前か、後ろか、速く行くか、

いったん落ち着くか。

サッカーでは、同じ場面は二度と来ない。

だからベンチから答えを叫び続けても、選手は育たない。

丸いボールと22人の人間が絡み、二度と同じシーンが繰り返されない。

そのドラマの主人公は子どもたち自身だ。

通信は、子どもへの手紙であり、

自分への鏡だった

通信は、技術解説のためだけに書いていたのではない。

子どもたちに「自分たちが主人公だ」と伝えるためでも

あった。

Vol.1には「サッカーをするのは、君たちです。

私たちはそのお手伝いしかできません」と書いている。

毎月書くということは、自分の考えを毎月言語化すること

でもある。

何を教えたいのか?

今の子どもに何が必要か?

自分は厳しすぎないか?

理解できないことを押しつけていないか?

 

通信の右半分に技術を書き、左半分に夢や努力を書きながら、

実は一番考えさせられていたのは私自身だった。

 

Vol.12の「うまいんだけど、強くない・・何でかな?」と

いうつぶやきは、その後の数年を象徴している。

技術をつければすべて解決するわけではない。

勝負強さ、仲間との関係、取り組み方、気持ち。

 

サッカーは技術だけではできていない。

そのことが、少しずつ見え始めていた。

3章 勝ちたい、だが蹴らせたくない

もちろん、勝ちたくなかったわけではない。

優勝もしたし、それ以上にたくさん負けた。

体格やスピードのある相手、前へ大きく蹴る相手、

ゴール前に選手を残す相手、パスを回す相手に苦しんだ。

 

試合に負ければ、指導者として迷う。

勝つためにパスを教えるべきか。守備の選手を後ろに残すべきか?

大人がポジションを決めるべきか?

資料には「これは大人の考え方、果たしていいのか?」

「問題は指導者がどこまで忍耐(方針を崩さない)できるか」

とある。

 

私は「ただ前に蹴るサッカー」が嫌いだった。

18歳になれば、体格もスピードも同じようになってくる。

強豪チームでレギュラーを取るならば、そこに技術の差が

必要ではないかとずっと考えていた。

高校時代の私がそうだったから。

 

だから、育成年代である子供たちには、

まず自分でボールを持ってほしかった。

ドリブルがまだ十分でない子にも、すぐパスを

選ばせるのではなく、

失敗してもいいから自分で運ぶように言った。

 

2007年度の2年生でも基本方針は変わらなかった。

全員で攻め、全員で守る。GKも前へ出る。

まずドリブルとフェイントで突破する。

必要に応じてパスを使う。

個々の技術は上がった一方で、体格、スピード、技術、

練習参加回数による差も見え始めた。

そして、サッカーそのものも少しずつ変わっていく。

ゴール前にみんなが集まる「だんご」では点が取れない。

幅と深さが必要になる。

キックやインサイドパス、コントロールも教えなければならない。

つまり、私自身も子どもたちと一緒に学んでいた。

「ドリブルだけでいい」ではない。

「パスを教えればいい」でもない。

個人でボールを扱えることを土台に、その上に周囲を見ること、

味方とつながること、状況を判断することを積み上げていく。

後の指導計画に出てくる

「100年建築の家は基礎がしっかりしている」という感覚は、

この頃から形になっていった。